院長ストーリー
1.はじめに

私は1973年(昭和48年)6月7日に北海道の室蘭市で生まれました。2人兄弟で2歳年下の弟がいます。父は北海道の公務員、母は専業主婦をしており、2人は高校の同級生だったということです。
この原稿は2025年(令和7年)4月に書きました。私はこの時51歳で、生まれてから約半世紀、開業してから20年が経過していました。良い機会なので、自分の人生を振り返って私の生い立ちや歯科医師になってどんな人生を歩んでいったかという事を書いてみようと思いました。こんな理事長がやっている歯科医院だということを、患者さんにも知ってもらうことで、これからも初心を忘れずにこの仕事を一生懸命やっていこうと思っています。
2.幼少期から小学校時代

私の世代は第二次ベビーブームの時期だったので子供が多い時代でした。小学校の時は1クラスに50人近くの生徒がいた時もありました。幼いときは両親の言うことをよく聞いて、他人に迷惑をかけないように気をつける子供だったようです。また、活発だったけど、内心臆病で、よく人の顔色をうかがっているような性格でした。

室蘭の幼稚園を卒園後、転勤して江別市の小学校に通いました。3・4年生の時は紅白の司会をやるくらい国民的大スターのあの天然パーマの方と一緒のクラスだった時もあります。
4年生の2学期から札幌の平岸の小学校に転勤しました。この時に公文式を習っている同級生が多かったので、母親に一生懸命お願いして始めることができました。遅れて入った私は最初、A教材(小学1年相当)から開始することになりました。ほとんどの友達はみんなD教材(小学4年相当)以上をやっていたので、簡単なA教材を解いている私はとてもからかわれて悔しい思いをしました。早くみんなに追いつきたくて休日は50枚くらい宿題をやったりしてがんばった結果、半年くらいでD教材に進んで追いつき、そのまま追い越しました。

5年生の時はG教材(中学1年相当)に進み、みんなの前で表彰されたのがとても嬉しくて自分にも自信がつきました。その後H、I、Jまで進んで、6年生の時は数学の微分をやっていました。しかしK(高校2年生相当)まで進んで積分の問題でつまずいて、そこから全くすすめなくなりました。教室の先生も教えられなかったようで、とても悔しかったけど公文式をやめることになりました。
しかし、おかげで、中学校の時は数学のアドバンテージがあり、テストの時は他の科目に時間をかけることができたので総合的良い成績をとることができました。公文式で学べたことに今でもとても感謝しています。
3.中学高校時代

父親の転勤で苫小牧の中学校に通いました。クラスに知っている人は誰もいなかったのですがすぐ友達が沢山できました。転勤慣れしていたので環境適応能力はあったのかもしれません。北大学力増進会という塾に通って勉強は自分なりに頑張りました。部活はサッカー部に入ったのですが、部員が多く、上手な人も多かったので、ずーっと補欠で試合にはあまりでることはできませんでした。
また、この頃は生徒会で学級委員長を務めたりして、自分でいうのもアレですが絵に書いたような真面目な生徒だったと思います。
父は今後も北海道内のあちこちに転勤が予想されたので、今後の私の進学を考えて両親が石狩市に家を建てて、中学3年生の秋頃に最後の転校をしました。この両親の決断には本当に感謝しかありません。私は猛勉強して、進学校の札幌北高等学校に合格することができました。

ベビーブームの影響で生徒数が多く、高校は12クラスもあり、1学年552人の生徒がいました。校舎が足りなくてプレハブの教室を増設して教室を増やしていました。高校生活は楽しくて、学校帰りにカラオケに行ったり、仲の良かった女子友達と喫茶店にいってパフェを食べたり、休日は札幌の中心部に出かけて、買い物や映画をみたりしました。一番印象に残った映画は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でした、今見てもとても面白いですよね。

勉強の方は1年生の時は学年の成績の順位は150番くらいでまあまあだったのですが、2年生の時は200番台、ひどいときは400番台まで落ちたこともありました。もう公文式で学んだアドバンテージもありませんでした。自分は特に頭が良いわけではなかったんだと思い知りました。大学受験も2度失敗し、20歳の時に初めての人生のどん底を味わいました。
特に目立った能力はなく、勉学が自分の将来の選択肢を広げてくれる唯一の手段だと信じてがんばってきたのですが、結果を出すことができませんでした。自分の進学を考えて、家まで建ててくれた両親にも申し訳なく思いました。3度目の受験は、前年よりセンター試験の結果がかなり悪く、医学部の受験は断念して背水の陣で北海道大学歯学部の2次試験を受けましたが、何とか合格を手にすることができました。
4.大学時代

歯学部は4年制だと思っていたのですが、入学して初めて6年制だということを知りました。両親も知らなかったので驚いていました。大学には色々な人がいて、遊びも勉強も様々な事を学ばせていただきました。部活は北大歯学部のサッカー部に入りました。昼はサッカー部で練習し、夜はサッケー部(酒部)と称して飲み会も多かった部でした。3年生の時はキャプテンを務めました。
北海道内だけでなく、東北や関東、関西、九州などでも大会があり、そのついでに全国を旅することができました。あまり強くなかったけど、先輩や後輩、同級生とサッカーだけでなく、プライベートでも色々な経験を共にすることで強い絆を結ぶことができました。そのつながりは現在でも私を支えてくれる大切な人脈となっています。

大学時代にやってしまった大きな失敗が2つあります。
1つは、2年生の時のサークルの花見で、ハメを外しすぎて飲みすぎて倒れて救急車で運ばれたことです。
病院に両親が迎えにきたとき、母親は情けないと涙を流していました。それに反して父親は、自分の限界がわかって良い経験になったな、今後は気をつけろ、と諭してくれました。

もう一つは3年生の時に単位が足りなくて留年してしまったことです。ただでさえ浪人して6年生の大学に通わせてもらっている両親に大変申し訳なく猛省しました。それからは気持ちを入れ替えて勉学に励み、国家試験は1発で合格して、やっと社会人として、歯科医師としての人生が始まりました。
5.勤務医から開業、そして現在まで

医師になりたかったけど医学部にいけなかったからという理由で、歯学部に進学して歯科医師になった、という人は結構います。私もその一人です。それでもなぜ私が歯科医師になったかというと、ある程度社会的なステイタスがあるのと、手に職をつけて自分の力で挑戦していける人生を歩みたかったからだと思います。
結果的に私は歯科の道に進んでよかったと思います。歯科医師には、知識、技術に加えて必要な能力が沢山あります。体力や忍耐力、観察力、コミュニケーション能力など様々な能力がバランスよく備わっていないと、患者さんやスタッフに受け入れてもらえません。そういったことは、大学時代の友人、知人のおかげてある程度自然と身についていたようでした。勤務医時代は、治療に励み、歯科関係の本をたくさん読み、休みの日はセミナーに参加して学んだりして、少しでも早く一人前の歯科医師になろうと意識して頑張りました。また、指導していただいた院長先生にも大変恵まれました。本当に感謝しております、至らない私を雇っていただき大変ありがとうございました。
そして、平成16年(2004年)10月にアイビー歯科クリニックを開院することができました。地下鉄の駅の出口の目の前に医院があるので、沢山患者さんが来てくれるだろうと思っていました。しかし、予想に反して全然来てくれませんでした。午前中は1~3人、1日通しても10人前後しか患者さんがこない日が1年以上続きました。「こんなはずでは」と思い、悩みました。「一生懸命良い治療をすれば患者さんがやってくる」という甘いものではなかったのです、このころの私は経営というものを全くわかっていませんでした。

困った時は人を頼る、素直な気持ちでサッカー部の先輩達に相談してアドバイスをいただきました。勧められた歯科医院の経営セミナーに参加したり、会社経営や自己啓発の本などを読み漁ることで、経営の仕方や、部下のマネイジメントなどを学び、様々なことにチャレンジしていきました。スタッフと協力して、患者さんが気持ちよく通っていただける歯科医院を本気で目指しました。
すると、徐々に患者さんが増え、スタッフも増員することとなり、にぎやかな歯科医院になっていきました。そのうち私一人では全ての患者さんを見ることができなくなるくらい忙しくなり、診療のイスを増やして新たに歯科医師を雇用して規模を拡大していきました。気がついてみると地域でもそこそこ流行っている歯科医院へと成長していました。

このころの私は「自分は歯科医師として経営者として成功したんだ」と今思えば大きな勘違いをしていました。業務量が増えて、従業員の指導が増えて、自分に余裕がなくなっていました、「なんで教えた通りにやらないの?」「何度同じミスをしてるの?」「もっと早く自分から動けないかな?」などと思い通りにいかない苛立ちをスタッフにぶつけることが多くなりました。仕事が終わった後はストレスのせいかお酒の量が増えて、妻に愚痴をいう事も多くなりました。だんだんと自分の周りに怪しい雰囲気が漂い始めました。
そんなある日家に帰ったら誰もいませんでした。そして、なんとなく家の中の物が少なくなっているような気がしました。そしてテーブルの上に離婚届が置いてありました。前からそんな予感があったので納得して受け入れました。更にそれから2~3か月後には、複数のスタッフから、仕事が大変なので退職したいと言われました。当時の私の指導が厳しすぎて嫌になったのでしょう、自分の周りからどんどん人が離れていき、なんのために仕事をしているのかわからなくなりました。これは経営者として成功したと勘違いしてしまったために生じた自分の「おごりや慢心、油断」が原因だったと思われます。

ショックが続き自信を失いましたが、この危機的な状況を乗り越えていくために、今までの自分を改めてて1から医院を立て直そうと決意しました。まずは、自分の生活習慣を規則正しく改善したり、定期的に運動するようにしました。また、スタッフ一人一人と面談し、自分の至らないところを指摘してもらって直していくように務めました。

常に自分を俯瞰して、客観的にみるように心がけていこうと思いました。自分の精神を根本から鍛え直すような取り組みも行いました。そうやって成功と失敗(学び)を繰り返して行くうちに、今では4つの歯科医院と、パートも含めれば50人以上の従業員を抱える理事長になっています。
こんな私の所に、本当にたくさんの患者さんやスタッフ、勤務医が集まってくれて感謝の言葉しかありません。「皆様、有難うございます」これからも医院もコンセプトである「自分や友人、家族が通える歯科医院」を実践していくために、みんなで力を合わせて頑張っていこうと思います。また、当院で一生懸命働いてくれている、スタッフや勤務医が「自己成長・自己実現」できる職場環境を整え続けていくように、経営者としても一層努力していこうと思います。